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2024.09.07 ブログ
こんにちは、井上です。
みなさんはアニメやマンガなどは好きでしょうか?このブログでも何度かお伝えしている通り、私はマンガ、アニメ、小説、映画が大好きでよく見たり読んだりしています。現在進行形で楽しんでいる作品は、『漫画 君たちはどう生きるか』、アニメの『進撃の巨人』と『ジョジョの奇妙な冒険』、又吉直樹さんの小説『火花』を楽しんでいます。大忙しです(笑)どれも素晴らしい作品なので、いつか感想を書けたらと思っています。
たいていの作品には「主人公」がいます。(『桐島、部活やめるってよ』はそういう意味では珍しい作品でした。)その主人公が成功したり失敗したりしながら物語が展開されていきます。その奇想天外な過程や常人では考えられないような努力やスペシャルな必殺技、そして想像もつかなかった結果や結末に感動したり感情移入したりしながらその作品を楽しみます。
私もそんなふうに、作品に登場する変人・奇人・偉人たちに憧れたり感動したりしながら作品を楽しんでいます。しかし、一方で、メインの物語を楽しみながら、同時に「描かれなかった人物」を頭の片隅で想像するという変わった癖があります。
「少年革命家」と称されるYouTuber(肩書がわからないので、誤っていたらすみません)「ゆたぼん」さんのニュースがネット上にあがる度に、いろいろな賛否両論が起こります。しかし、少なくとも現在のところ、不登校であった過去をプラスの結果に変えられているようです。YouTubeでの収益だけでなく、最近では高卒認定を受けるための試験で目標を達成しようとしているというニュースも見かけましたが、自分のやりたい事にきちんと努力と意志を反映させて、結果を出しながら前に進んでいるようです。こういうニュースは、おそらく何人もの「同じ境遇」の人の励みになっていることでしょう。一方で、同じように前に進もうとしたのに「失敗」した人もいるはずです。あれ?うまくいかないぞ、と。
また、先日までパリでオリンピック・パラリンピックが開催されていましたが、ここでも様々な選手が感動を与えてくれました。しかし、「結果」という観点から見ると、表彰台に立てる人は、どの競技でも世界でたった3人です。その他の選手は、4年(あるいは数十年)の努力が結実せず、ニュースで報道されることは少なくなります。
つまり、世の中には、「結実した努力」と「結実しなかった努力」があり、オリンピックの例を挙げるまでもなく、大半は後者になります。
だからこそ、後者よりも前者のほうが映画などの作品として描かれる場合が多く、それが人に感動を与えるのです。
しかし、結実しなかった努力は無駄になるとは、私は思っていません。よく「人生という物語の主人公は、自分自身である」という言葉を目にしますが、換言すると、「人生の物語の結末を決めるのは自分自身である」というふうにも言えるのではないかと思います。不登校の生徒が学校に行くようになることだけが「人生の結末」であるとは限りませんし、オリンピックで金メダルを獲ることだけが「競技人生の集大成」であるとは限りません。ゆたぼんさんやメダリストたちのように「誰にとってもわかりやすい栄冠」を手にすることだけが人生ではありません。それぞれに自分の目標があり、それを手にすることが人生です。他人が決めることでは決してありません。一方で、私は「結果」を出すことの重要性も感じています。しかし、このブログのテーマと異なるので、割愛します。(以前のこちらのブログに「結果と内容」について書いたので、興味があればご覧ください笑)
話が逸れましたが、私は、スポットライトが当たるものだけに目を配るのではなく、スポットライトは当たらなかったが、「確かにそこにあるもの」を想像することが大切なのではないかと思っているのです。
また、先日、「『原爆投下は正当だった』アメリカ人学生の言葉に日本人精神科医が返した言葉」というネット記事(「FRau」 KODANSHA 内田舞氏による記事)の中で、精神科医の内田舞さんは、アメリカで生活をしているときに感じた、日本人と外国人(主にアメリカ人)との原爆に対する意識の違いについて書かれていましたが、ここでも、「想像力」の大切さを語っておられました。
「(略)誰かの責任だということは簡単だけど、それだけが注目されるべき問題ではない。日本に原爆が投下されたのは『冷戦での使用を防ぐための投下』というような、核戦争や核兵器についての議論を『理論的には』と、実体験から隔離した机上の空論のように語るのは良くないことだと思う。実際、原爆投下後のヒロシマやナガサキでどれだけの人がどのように亡くなったのか……。 熱波で瞬間的に消えてしまった命、爆風にとばされた人、ガラスのかけらが体中に刺さった人、皮膚がとけ落ちてしまった人、ひどい火傷で川に飛び込んで亡くなった人、白血病で血を吐きながら亡くなった人、親を亡くした子どもたち……。もっともっと様々な生き様がそこにあり、その人々のストーリーなしには核兵器は語られるべきではない。それがNever Againに繋がると思う。」
あの日、広島と長崎に原爆が落とされたという事実が私たちに残した問題は、あの戦争における原爆の必要性や、原爆の恐ろしさや、亡くなった人の多さなど、そういう抽象化・一般化した理論的な問題ではない。亡くなった、あるいは被害を受けた一人ひとりの物語を知り、感じ、想像することが重要であると内田さんはおっしゃっています。(これは、修学旅行等で実地で実際に自分の目で見て「体験する」ことの大切さにつながります。)
私たちは、作品を楽しむとき、主人公を求めストーリーを楽しみます。そこに描かれた人や物を楽しみ、応援します。例えば、私も大好きなマンガ『ハイキュー!!』では、みなさんはどの選手が好きですか?主人公じゃないよ、と思う人もいるかもしれません。白鳥沢学園の牛若、音駒の狐爪、稲荷崎の宮兄弟…挙げだしたらキリがないくらい魅力的な人たちが登場しますね。この作品は比較的多くの人の過去が作中で語られていますが、「作中に語られていない」過去や努力や苦悩を想像しましたか?どんな過去があってこの場面につながったのか、どれくらいの努力をこの場面までに重ねてきたのか。負けたチームのこれまでの苦労とこれからの生活。それらを想像することが、私が言いたい「想像力」です。
先ほども書きましたが、私たちの人生の主役は私たち自身です。これは疑いようのない事実ですし、この事実はとても大切にしてほしいと思いますが、一方で、作品で語られた物語だけを楽しむ人は、人生で言えば、自分の人生のことしか考えていない人になるかもしれません。「見える部分だけ」しか見ていないからです。
例えば、友達の家での生活は見えませんし、ましてやその家族の生活なんて知りようもありません。もしそれを想像することができたら、今日のあの子のあの行動や言動を理解してやれるかもしれません。怒ってしまう前に、ひと言、「どうしてそんなことを言うの?何かあった?」と優しく問うてあげられるかもしれません。また、夕食が目の前に並べられたときに、みなさんは何を思いますか?その夕食を作ってくれた人、スーパーでまで食材を運んだ人、食材を育てた人、そういう人たちがかけた愛情と苦労と時間。それらは目には見えませんが、「確かにそこにあるもの」です。
そういった目に見えないものや人を想像することが、ひいては、人にやさしくすることにつながります。そして、それを想像するためには、考える力やそのための知識が必要です。
勉強は大切です。
みなさんは、小学1年生から勉強してきました。(最近では小学校受験をする人も多いので、もっと早くからしてきたかもしれません。)勉強することを目的としてし続けてきて、そして、多くの人が、その最初の試験として、高校入試を控えています。
しかし、いったいその知識が何の役に立つのでしょうか?多くの人がすでに知っているように、生きるためや仕事をするために二次関数も化学反応式も古文も必要ありません。必要な職業もありますが、すべての職業に不可欠なものではありません。
私は、人生を通して勉強の目的をいくつか感じてきました(これは自分自身でつかむべきものであって人に教えられる類のものではありません)が、そのひとつが、想像力を駆使して、「人にやさしくするため」ではないかと思っています。人にやさしくするためには、その人を知らなければなりません。一方的な優しさは、時に相手の負担になることもあります(悲しいことですが)。
今は勉強が目的になっていますが、いつか勉強を、「何かの目的のための道具」とすることができれば、みんさんが学生時代に学んだことは「不必要なもの」にはならないはずです。いつか「道具として」今の勉強が使える日が来ることを願っています。
学生はまだその途上にあります。今の苦労が将来、何かの糧となるよう、少し広い視野でこれから先に広がる世界を想像して、勉強を頑張ってほしいと思っています。
それでは、今日はこの辺で失礼します。