卵を割れるようになりました。

2023.05.04 ブログ


こんにちは、家でのランチと言えば、トースト・卵焼き・ウインナー・コーヒー、の井上です。そんな生活が30年くらい続いています。
ところが、私は卵を割るのがあまりうまくありません。きれいに割れずにぐでっとなったり、4個に1個くらいはカラがフライパンに入ったりしてしまいます。1回だけ強めに割っても、何度かに分けて弱くコンコンとしても、うまくいきません。

そんなとき、ふと2か所に割れ目をつけて割ってみるということを思いつきました。すると、うまく割れたのです。
あ…これは…と私は思いました。
もしかしたら私は完璧な方法をあみだしたのかもしれない…伝説がここから始まるのかもしれない…と。

しかし、私はすぐには舞い上がりません。かの名ジャズドラマー、ジョー・ポーカロ氏は言いました、「成長は反復のおかげである。繰り返すことが一番大事なんだ」と。
その言葉の正しさを証明するように、私は、2か所に割れ目を入れてから卵を割るという血は滲まない作業を毎日繰り返しました。毎日毎日。雨が降ろうが雪が降ろうが、室内なので関係ありません。そもそも大阪は雨はまだしも雪はほとんど降りません。それでも毎日卵を割り続けました。
そして、今日で2ヶ月が過ぎました。永遠とは思えない2ヶ月でした…。卵のカラが手に食い込むようなこともありませんでしたし、空に大きな穴が開いて、この世のすべての闇が地上に降り注ぐというようなことも、もちろんありませんでした。正真正銘ふつうの2ヶ月でした…。
そして、いまのところ、卵のカラは毎回必ずうまく割れています。すごい発明をしてしまった、私は狂喜乱舞はしませんでした。ふつうに喜んだだけでした。
そして、卵のカラをうまく割れるようになった今、私は思います。どうして今まで誰も教えてくれなかったんだろう、と。おそらく多くの人ができるであろうこんな簡単なことをなぜ人は教えてくれなかったのか、と。
そんなことはわざわざ人から学ぶことでも人に聞くことでもないのでしょうか?わざわざ学ばなくても、経験からなんとなくうまく割れるという人もいるでしょう。1か所しか割れ目を入れずにうまく割れる人もいるでしょう。しかし、経験や感覚ほどあやふやなものはありません。そこには再現性がありません。その人はうまくいっても、ほかの人に当てはまるかはわかりませんし、毎回必ずというわけにもいかないかもしれません。その証拠が私です。今まで感覚的にやってきた結果、何度も失敗してきたわけです。

と、ここまで思ったとき、私は、これはまるで授業のようだなと思いました。

私が授業で気を付けていることの一つに、再現性の高さというものがあります。
例えば、基本的な一問があるとして、その一問を解くことはだいたいの生徒にはできます。

では、基本的な10問ではどうでしょうか?
あるいは、その問題に関連した標準的な一問は解けるでしょうか?
さらに応用問題はどうでしょうか

私は10問すべて解けますし、標準的な問題も応用問題も解けます。こんなことを言うと、生徒は「先生やからや」と言います。本当にそうでしょうか?先生にしか解けないのでしょうか?そんなことはありません。私は魔法を使って解くわけではないからです。生徒たちと同じように、問題を考え注意すべき場所を確認して、正しい答えを導くだけです。考え方と知識と注意すべきところがわかってさえいれば、誰にだって解けます。

その考え方と知識と注意すべきところを教えるのが、私の授業の重要な部分になります。端的に言うと、授業とは、「私の頭の中を生徒と共有する」ことが目的です。ですから、授業で、「解けることはここではそんなに意味はない」という言い方をすることがしばしばあります。この一問を解けるよりも、考え方(=私の頭の中)を知ることのほうが重要だと思うからです。素早く一問を正解しても、10問中7問しか正解しないのでは、単なる70点です。しかし、初めの一問を間違えても、そこで考え方を身につけて、その先の9問を正解すれば、90点です。卵の例と同じです。私はいつまでたっても10回に3回は失敗していましたが、割り方を知ってからは、一つも失敗していません。


例えば、
「I'm a student.(否定文にしなさい)」という問題があったとします。
ほとんどの生徒は簡単に答えを出します、そうですね、「I'm not a student.」ですね。
1年生の今の時期なら、私はこの解説に、場合によっては10分ほど使います。なぜそんなに使うのか。どこにそんなに時間が必要なのか。
正解を出せた人はどうやってその答えを出せたのでしょうか?しっかりと勉強してきた人は理由を答えられるでしょう。「感覚的に」勉強してきた人はうまく説明できないかもしれません。
では、
「Those women dancing well on the stage are from the U.S.(否定文にしなさい)」ではどうでしょうか?正解できますか?習っていない単語がある?文法もまだ習っていない?そうですね、でも、私にはどちらも「同じ問題」に見えています。習っていない単語も文法も関係なく、「同じ考え方」で正解を出すことができます。正解は「Those women dancing on the stage well aren't from the U.S.」です。
わかるでしょうか?どちらもbe動詞も文なんです。私はこれらの問題を解くときに一つの知識、考え方しか使いません。amはbe動詞だ、be動詞の否定文はbe動詞の後にnotを置けばいい。下の問題も同じです。amがareに変わっただけです。areももちろんbe動詞なので、その後にnotを置けば否定文になります。
これが私の授業です。上の問題は「感覚的に」解けても、下のあまり見たことがない形で出された問題になると解けないのでは、点数は不安定になってしまいます。

このことをわかってもらうために手を変え品を変え説明するのですが、なかなか伝わらないものです。これは子供だけの問題ではありません。
右側には、理由は分からなくとも確実に「正解」にすぐにたどり着けそうな道がある、またもう一方の左の道には、「正解」はありそうですが、なんだかそこにたどり着くまでにややこしそうな道が続いている。そんなときに左を選べる人はあまり多くありません。「簡単な道と難しい道があるときは、難しい道を選べ」と誰かが言っていましたが(本来の意図は違うかもしれませんが)、まさにそういうことです。
右側の道はその一問は解けても、また次の問題は「一から解く」ことになります。初めの道は次の道にもどこにもつながらないからです。しかし、左側の道は、その一問さえクリアしてしまえば、次の一問、さらにその次の一問とずっと続いていって、結果的には右側の道よりも早く正確に正解にたどり着く道となっていきます。
また、いつまでも「自分の卵のカラの割り方」を繰り返す人は往々にして言い訳が得意なように思います。できた問題は「自分の実力」。できなかった問題は「ミス」「難しかった」「習っていなかった」「時間がなかった」などと言い続けて、いつまでも自分のやり方を省みない人が多いです。あるいは、できなかった問題に対して、「自分の実力だ」と逆に開き直る人もいます。これは「自分の実力はここまでだからできなくて当然だ」という意味です。そうではありません、私は生徒に、自分の可能性を否定するようなことを言うな、と言います。「できない」のではなく、「できるための努力を嫌がっている」だけです。

さらにまた、生徒たちは「正解」にこだわります。どうしても〇(マル)したいのです。その気持ちは分かりますが、それが勉強の中心ではありません。「解ける」ことに意味があるのはテストだけです。それ以外では、きちんと正しい道を進んでいるのなら、何度間違えてもいいと私は思います。進んでいる道が正しいか間違っているか、たった一問に正解するよりもそのほうがはるかに有益です。
私と「正しい卵の割り方」を共有してみませんか?

さて、昨日から連休が始まりました。勉強、部活、旅行、遊び、いろいろな予定があると思いますが、連休明けには中間テストが目前の時期になっています(休み中に読んでいる人にはイヤな思いをさせてすみません笑)。そのことを念頭に置いて過ごしてもらえたらと思います。私はそのことを念頭に置いて、明日キャンプに行ってきます。テストが始まるなと思いながらテントを張り、テストが始まるなと思いながら肉を焼き、テストが始まるなと思いながら風呂に入り、テストが始まるなと思いながらテントの中でネットフックスで『ハイキュー!!』を見たり小説を読んだりします。そして、飽きると外に出て星を見るでしょう、もちろんテストが始まるなと思いながら…どんなキャンプやねん(笑)
みなさんも楽しんでください。

では、今日はこの辺で失礼します。


sungrove

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