目標までの距離

2023.02.28 ブログ


こんにちは、井上です。
最近ChatGPTについてのニュースをよく見聞きします。ネット検索の「不器用さ」と言いましょうか、「かゆいところに手の届かない感じ」と言いましょうか、とりあえず、調べたい結果と違うインターネットサイトがずらーっと並んで「そういうことちゃうねん!」という、誰もが経験したことがあるであろう部分を大きく改善したものだそうです。あまりの発明に、あのGoogle社やビルゲイツ氏が脅威に感じるほどのもので、こちら側の意図をくみ取った検索結果を、自然な口調でChatとして回答してくれるもののようです。私は今のところ使ったことはありませんが、もしかするとインターネット検索がごく自然に私たちの生活になじんできたように、いずれは自然に「使わされている」ようになっていくのかもしれません。
どんなものか興味があり調べながら、ふと思ったことがあります。この先AIが世の中を変えていけば、もしかすると人は目標までの距離感をうまく掴めなくなっていったり自分で考えることができなくなっていくかもしれない、ということです。わからないことがあれば、AIは、指一本で正確な回答を提示してくれますし、欲しいものがあればネットショッピングでたいていのものを手に入れられます。ほんの数分あればだいたいのことが解決します。これはすごく便利なことですが、反面、おそろしいことにも繋がりかねないなと思いました。

わからないことを知ろうとするとき、または目の前の高い壁を乗り越えたいとき、それをするために、私たちには大別して3つの方法があると思います。
まずは、①何かを調べて答えを知るという方法です。本やインターネットやChatGPTなどです。信頼度や幅の広さなど性質上の違いはありますが、「調べて知ろうとする」という点でこれらに大きな違いありません。
次は、②他人に聞くという方法です。家族や友人に相談して答えを得ようとするものです。①よりも自分に近く、自分に合った答えを教えてくれるという意味では、精神的な安心感や信頼感は大きく変わるかもしれませんが、広い視点で見れば、①とそこまでの違いはないように思います。少し乱暴な言い方になりますが、結局は「他人任せ」なのです。
そして、最後が、③自分で答えを出す、という方法です。自分の今までの経験や得てきた知識を使ったり調査したりして答えを出そうとするものです。正確性や客観性に欠けてしまうという短所はありますが、おそらく人生の中で最も使用頻度が高い方法ではないかと思います。例えば、明日の起きる時間をインターネット検索することはないでしょうし、見たい番組やチャンネルを「オススメ」されることはあっても、それをすべて見ることはないでしょう。それの取捨選択は自分の判断によります。

この「自分で判断する」「自分で考える」ということは時にはとても時間がかかりますし失敗することもあるでしょう。しかし、目標を得るまでの距離感や目標を得るための正しい判断力が養われます。
中学生の立場を例にとると、例えば提出物の期限、受験で結果を出すための努力、部活で技術を上げるための練習など、物事にはそれぞれ期限があります。その期限までにどれだけの努力をすれば目標にたどり着くのか。みなさんもご経験のように、その時間的な感覚は人生経験によって養われる部分が大きいです。あの量であれくらいの時間がかかったから、この量ならこれくらいの時間がかかる、という具合に。
また、その過程でも自分の判断が必要とされます。何かの技術や能力を得たいとき、その方法をインターネット検索することは一般的になっています。しかし、無数にある方法から自分に合うものを選択するには知識や経験が必要です。少し話は逸れますが、いわゆる「天才」が世の中に出てきたとき、その人が子供の頃に行っていた習い事や遊びが世の中で流行するたびに、私はいつも首をかしげています。その方法はその人には合っていたのかもしれませんが、環境も能力も何もかも違う自分(または自分の子供)にもその方法が合う可能性はとても低いと思うからです。他人の人生を、無謀にうのみにせずに、自分で考える方が目標には近づくはずです。(考えた結果、他人の人生を参考にすることは良いことだと思いますが)
しかし、検索することが常に第一選択になる人は、その判断力が欠けるのではないかと憂慮しているのです。

生徒を見てよく思うことですが、わからない問題に直面したときに、彼らの多くは上記①か②を選択します。もちろん①や②によって「ヒント」を得ることも勉強では大切です。しかし、直接的な「答え」がわからなかったときに彼らの多くは「停止」してしまいます。それをヒントに答えにたどり着こうとしないのです(あるいはたどりつくことができないのです)。語弊があるかもしれませんが、たかが問題一問に対してそのように向き合うことは、大きな問題にはならないかもしれません。その問題が解けないままテストに向かってその問題を間違えるだけで済みます。しかし、それを繰り返して大人になった彼らは、果たして自分で考えて答えを出せるようになるのでしょうか?何か人生の上で選択を迫られたときも、自分で考えず(考えられず)AIに答えを出してもらうのでしょうか?あるいは周りの人の判断に任せるのでしょうか?

先日ネット記事に、新米の先生が、生徒の問題を解決するためにインターネット検索をしてその回答をそのまま生徒に伝えたというものがありました。笑い話なのか実際にあった事なのかその真偽はわかりませんが、このおそろしい出来事は、AIが世の中を席巻し私たちが何の疑問も持たずにその便利さに無抵抗でいたら、十分起こりえることだと思います。

私たちは何か問題が起こったときは、まず自分で考えることを第一選択にすべきです。それでも解決しない場合にインターネットやAIの力を借りるようにすべきです。そうしなければ、私たちは考えることや自力で乗り越えることができない人間になってしまうおそれがありますし、すでにその兆候は見られ始めているのかもしれません。
最後に断っておきますが、これはあくまでも私の個人的な憂慮であり、何かのデータに基づいているわけではありません。しかし、私は、もし「データがないことには信頼できない」という意見があるならば、そのこと自体、その答えは自分でしっかりと考えて出した答えなのか、と心配になります。誰かが正確なデータを提示するまでは、無防備に時代に流されてもいいのでしょうか?

さて、まもなく3月です。一般選抜が10日後に控えています。正しい距離感、正しい方法で勉強をしてきた人は、自力で結果を得るでしょう。それは合格を意味するのではなく、合格でも不合格でも、自分に足りなかったものを得るということです。それは今後の人生で、合否よりもはるかに大きな意味を持ちます。距離感や方法を誤ってきた人は、結果ですら「他人任せ」になってしまうかもしれません。そして、合格でも不合格でも、今後の人生に役立つ自分の良い面や悪い面に気付かずに次のステージに「流されていく」かもしれません。私にとっては、不合格よりもその方が怖いことに思えます。

問題が大きいからか、少しシリアスな話になりましたが、今日はこの辺で失礼します。


sungrove

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