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2022.07.06 ブログ
こんにちは、井上です。かなり久しぶりの投稿になりました。忙しすぎて「しかたなかった(笑)」のです。(この「笑」の意味は最後まで読むとお分かりいただけると思います)
突然ですが、みなさんは「しかたない」という言葉についてどう感じますか?そして、ふだんどのように使っていますか?
基本的に私はこの言葉を嫌っています。限界を決めている、逃げている、あきらめている、そのように感じるからです。この言葉を使えば使うだけ、自分の成長は止まると思っています。だから私はこの言葉をできるだけ使いません。私はもっともっと成長したいと思っているからです。この言葉は自分を今の場所に縛り付ける悪魔の呪文のようなものだと思っています。
しかし、この仕事を通して、「しかたない」の良い面を知りました。あるいは生徒や塾長や先輩方に教えていただきました。今日はそれについてのお話です。
「良い面」と書きましたが、基本的に「自分に対して」使う場合には良い面はないと思っています。何かを成し遂げようとしている最中の、できないことの理由に「しかたない」と言うのは、逃げるための口実である場合がほとんどです。どの分野においても、一流の人は決して「しかたない」とは言わないはずです。なんとかして事を成し遂げようとするでしょう。工夫、知識、経験、時間、精神力、その人が持つ、あるいは得られるすべてのものを駆使して成し遂げようとすると思います。それで成功すれば素晴らしいことでしょうし、万が一成功しなかったとしても、もしかすると「何らかの成功」を得ることはできるかもしれません。よく見聞きする「失敗には意味がある」というような名言の「失敗」は、この場合の「失敗」を指していると思います。努力も工夫もない失敗にはその先につながる成功を得ることは少ないと思います。
一方、「しかたない」は自分以外の人に対して使うこともできます。ここに「良い面」があると知ったわけです。この場合の「良い面」は「優しさ」という言葉に置きかえられるかもしれません。
人間には限界があります。自分の能力の限界や特色を学ぶのが、勉強や仕事や人間関係を通して得られる一番重要なものであると私は思っているのですが、その限界を見極めることが私たちの仕事では重要になってきます。偏差値は単なる数字の羅列ではないというのが私の持論です。ほとんどの人は、偏差値52の次は53、その次は54だと考えるでしょう。しかし、ある人にとって、52の次は52.1になり、その次は52.11になるかもしれません。つまり、51が52になったときと同じように、53まで簡単に上がるわけではないのです。人によっては53が存在しないこともあり得ます。偏差値を単なる数字の羅列だと考える人は、私のこの言葉を「子供の限界を決めつけている」「努力には無限の可能性があるはずだ」と批判するかもしれません。その考えは、子供にとって恐ろしいものになるかもしれないと、私は危惧しています。そして、恐ろしいことに、そして申し訳ないことに、かつての私はそう考えて生徒たちに接していました。
例えば、スケートの羽生結弦選手は現在4種類の4回転ジャンプを飛ぶことができるそうです。彼は今どんな技術を磨いているのでしょうか?4回転ジャンプの確実性でしょうか?トリプルアクセルの質の高さでしょうか?4回転半への挑戦でしょうか?詳しくないので誤りがあるかもしれませんが、おそらく5回転を飛べるようにすることではないと思います。一流の人は私ごとき凡人の遥か上を見ていますから、その可能性もありますが、少なくとも現時点では4回転(半)が人類の最大回転数です。その羽生選手に「4回転(半)まで飛べたのだから、なぜ5回転飛べないんだ?」と言う人がいるでしょうか?きっといないでしょう。それは彼が最大の努力をし、チャレンジし続けていることを私たちが知っているからです。彼ができないのなら「しかたない」と考えませんか?つまりこの場合、私たちは彼を信じているのです。信じているからこその「しかたない」を彼に送るわけです。
私が生徒に良い意味での「しかたない」を伝えるのはこういう場合です。むしろ彼らを信じているのです。彼らの努力、可能性を信じているからこそ、「今はしかたない」と言うわけです。本当に努力しているかの見極めや、その生徒には次に何が必要でそれに対してどんな課題を与えればいいかを考えることが私たちの仕事での重要な部分になります。この生徒は52まで上がった→でも53には上がらない→47の部分を飛ばして学習してきたことが原因だ→この生徒には47に戻って学習し直してもらおう、というような具合です。よくない部分(それは学習面だけでなく性格面であるかもしれません)を直してあげると、なかなか上がらなかった生徒が意外と簡単に53に上がったりします。
努力しているのに53に上がらなかったこの生徒に対して、私は「しかたない」と思うわけです。こんなときに周りの大人が「なんでこんな簡単なことがでけへんねん」と言うとその生徒は努力を認めてもらえなかった気持ちが残ってしまい、努力は無駄なものだと感じてしまうかもしれません。私は努力していてその方向が間違っていない生徒には、点数が上がらなくても、「そのままでいい」と伝えます。今は結果が出るタイミングではないことを知っているからです。
「しかたない」とは、「今は焦らなくてもいい」「そのままでいい」という意味の「(今は)しかたない」というものと、「その勉強量では上がらない」「努力の方向、内容が間違っている」と言う意味の「(それでは今回の結果は)しかたない」というものがあるわけです。言うまでもなく、前者が「良い面=優しさ」としての「しかたない」、後者が「悪い面=成長の見られない」「しかたない」です。この両者を使い分けながら十人十色の生徒を導いていくのが私たちの仕事の最も難しい部分であると言えます。
どうでしょうか?みなさんは「しかたない」という言葉を自分に対してばかり使っていませんか?「しかたない」とは、他人を許し認めるために使う優しい言葉だと思いませんか?時には自分に対して使うことも必要でしょう(冒頭の私のように笑)。しかし、自分にはしょっちゅう使うのに、他人に対しては「なんででけへんねん」と思う人は、自分に優しく、他人に厳しい人かもしれません。インドの革命家・ガンジーはかつて言いました、「自分を変えられない者が他人を変えられるわけがない」と。この先、自分に対して「しかたない」と思う直前に、本当にしかたないのか?まだできることはないか?と立ち止まってよく考えてみてください。あなたはまだまだそんなものじゃないと私は信じています。
今日はこの辺で失礼します。